ヒグマに出会ったらどうする?
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17 ) ナナーシ侍
[2003/05/08(木) 21:11]
これは実話です。
冬の三毛別村に起こった悲劇をたんたんと書き進める、
ヒグマの食害に関する大変貴重なお話です。
害獣による食害としては世界でもまれにみる規模だそうです。
特に、ヒグマに生きたまま人骨を噛み砕かれる描写は身の毛がよだちます。

18 ) 実話1
[2003/05/08(木) 21:46]
今から約90年前の大正4年、北海道苫前郡の開拓部落で1頭の羆により10名の犠牲者が出た。
これは、日本の獣害史上最悪の事件である
部落は事件後、解体され、いまではうっそうとした森林となっている。

出典元
オール読物(昭和39年7月 戸川幸夫 文芸春秋新社)
小説新潮8月特大号羆嵐(昭和40年8月 新潮社)
鬼鹿小学校史
御料林第8号(上牧豊道 林野会)
北海道山林史(北海道庁)
苫前町農業
<省略> [全文]

19 ) 実話2
[2003/05/08(木) 21:47]
1915年12月9日午前8時ころ
雪深い北海道の開拓部落(古丹別村字三毛別)で氷橋掛けの出合いに立ち向かった妙景安太郎、太田三郎の二人が、近所の六線沢のほぼ中央辺りにある松村長助の畑を通ったところ野積みにしてあるトウキビが食い荒らされて、一帯に巨羆の足跡が入り乱れていたのを目撃した。
出合いの場で二人はこのことに皆に話したが誰一人として不安を抱くことなく仕事に黙々と励んでいた。
それほど、この天塩山
<省略> [全文]

20 ) 実話3
[2003/05/08(木) 21:47]
午前9時半頃、ここを三毛別松下沢の農夫松永光太郎が馬に乗って通り太田三郎の家の奥にある岩崎金蔵の自宅に石臼を取りに行った。
松永は途中で顔見知りの太田の内縁の妻阿部マユのところで一服する予定であったが、深雪のため思うように進まず、そのまま金蔵の家までまっすぐに向かった。
岩崎宅で所用を済ませ、11時頃に太田宅を通ったときに、来るときとは違って何物かを引きづったあとが太田宅から向いの峰まで大量の
<省略> [全文]

21 ) 実話4
[2003/05/08(木) 21:48]
正午に太田三郎の同居人であるオド(力昼村の長松要吉)が阿部マユの作った昼飯を食いに帰ってきたとき、屋内は静寂で人気が無く、囲炉裏の片隅に三郎の知人の子、蓮見幹雄俯せたまま座り込み動かなかった。
幹雄は普段から茶目っ気がある性格だったのでオドは狸寝入りと思い名を呼んでみたが返答はなかった。
様子が尋常でないと思ったオドが肩を揺すってみたところ、まだ暖かいこの六歳の少年の顔下に流血が盛り上がって固
<省略> [全文]

22 ) 実話5
[2003/05/08(木) 21:49]
仰天したオドはマユを探して呼んだが声もなく、薄暗い部屋には不気味な雰囲気が漂うばかりであった。
肝をつぶしたオドは御料川より3`下流の出合の現場に急報した。
出合の現場の男衆が馳せつけてから事件の詳細が推測された。

羆は当初は山側の窓辺のトウキビを食おうと太田家に立ち寄ったらしいこと

過去に飯場の炊婦を食った羆であること

事件直前に谷喜八が撃ち鬼鹿山山頂まで追走したこと

23 ) 実話6
[2003/05/08(木) 21:49]
男衆が現場を確認するとこの藁で出来た粗末な家にはまだ火の気がある薪が散乱し、部屋の片隅には血糊に包まれた鉞(マサカリ)の柄が落ちていた。
居間と寝間の間仕切りにはたくさんの血だらけの手形が付着していた。
寝間の布団は元の色が分からないほどに真っ赤に鮮血にまみれてそこから屋外までマユを引きずった跡があり、壁は羆の一撃でぶち破られていた。
何度も殴られて血だらけになりながら助けを求めて泣き叫び部
<省略> [全文]

24 ) 実話7
[2003/05/08(木) 21:50]
事件の翌日の12月10日未明に、この凶報は近接全部落に伝えられた。
9時頃、三毛別本村の救援部隊を含む30余人の捜索隊がマユの遺体を収容するために深雪の山に入っていった。
先頭には河端甚太郎が長柄の鎌を手に進み、マタギ谷喜八、金子富三、宮本由太郎、千葉幸吉、加藤鉄志が銃手として従い、その後に思い思いの凶器を持った有士20数人が続いた。
一行が小峰の頂上のトドマツの辺りに到着するとマユを食している最中
<省略> [全文]

25 ) ナナーシ侍
[2003/05/08(木) 21:50]
>>18

おお、サンクス。
これから書き上げようかと思っていた矢先。
お任せいたします。

26 ) 実話8
[2003/05/08(木) 21:51]
内縁の妻マユとの間に子のいなかった太田三郎は、大椴村の幼なじみの埼玉県人蓮見嘉七の三男幹雄を半ば強引に引き取り可愛がっていた。
嘉七の妻チセは幹雄を地元の力昼小学校へ入れるつもりだったと言うから養子に出すつもりはなかったらしい。
幹雄少年は自分を可愛がってくれる太田家は居心地が良かったらしく三郎やマユ、オドにとてもよく懐いていた。
事件の朝、幹雄は三郎に出合作業に連れていってくれとだだをこね
<省略> [全文]

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